エジソン


「エジソン」読書の手びき

 エジソンは、教師を質問ぜめにしてついに低能児の烙印を押され、わずか3か月で小学校をやめてしまいました。母は、わが子を信じていました。そして、母が信じていたとおり、エジソンは独学によって世界の発明王となりました。ここには「学ぶこととは何か」の最もたいせつなものが物語られています。電信機、電話器、蓄音機、白熱電灯、活動写真……。これらの発明は、教えられたことの中からではなく、ものごとを能動的にみつめながら自ら学んでいくことをとおして、成し遂げられていきました。エジソンが1000以上もの発明を成し得た秘密は、すべてここにあるといっても過言ではないでしょう。死の前に昏睡状態から覚めたとき、エジソンは「あの世は、とても美しい」とつぶやき、それが最期のことばになったということです。自分の生涯を燃焼しつくした幸福感が、来世を美しいものにしたのではないでしょうか。偉大な発明王は、まず何よりも偉大な人間でした。

文:有吉忠行
絵:安久津和巳
編集プロデュース:酒井義夫


なぜなの? どうしてなの?

「天才とは、99パーセントの努力と1パーセントのひらめきです」

生まれつき頭のすぐれた人でも、努力に努力をかさねてこそ初めて、ほんとうの天才といわれるような人間になれるのだ……という言葉を残した世界の発明王トマス・アルバ・エジソンは、1847年にアメリカ北部のミランという町で生まれました。

父サムエルは、屋根板を作る木工所の経営者です。母ナンシーは、小学校の先生をしたこともある、教養の高いやさしい人でした。

7番めの子として生まれたエジソンは、幼いころから、好奇心のひといちばい強い子どもでした。

「どうして、こうなるの?」「これは、なぜなの?」

わからないことがあると、だれにでも質問します。その熱心なことといったら、エジソンの顔を見た大人たちが、逃げだしてしまうほどでした。

ある日のこと、かじやの職人に「火はどうして燃えるの?」と聞きました。しかし職人は「燃えるから火なんだよ」と答えただけでした。そこでエジソンは、家に帰って、物置き小屋のわらに火をつけてみました。火が燃えるところを確かめてやろうと思ったのです。火はどんどん燃えひろがり、とうとう小屋を焼いてしまいました。

ガチョウが卵をあたためているのをまねして、鳥小屋で卵をだいて、いっしょうけんめいに、ひなにかえそうとしたこともあります。何度実験に失敗しても、ふしぎだと思うと、やっぱり確かめずにはいられませんでした。

1854年、一家はポート・ヒューロンに移り、エジソンはこの町で小学校に入学しました。

学校に通うようになっても、ふしぎがりやの性格は少しも変わりません。

「1たす1はどうして2になるのですか」「風はどうしたら見えますか」「リンゴはなぜ赤いのですか」「ABCはなぜあるのですか」

エジソンの質問ぜめにあった先生は、かんかんにおこってしまいました。

「なぜ、そんなあたりまえのことを聞くのだ。おまえの頭はくさっている」

先生には、エジソンの性格がつかめなかったようです。

エジソンは、わずか3か月で学校をやめ、家で、母のナンシーから勉強を教わることになりました。

質問ずきで実験ずきな息子の長所を伸ばそうと考えたナンシーは、エジソンに国語や算数を教えただけでなく、歴史や文学をたいせつにする、広い心を養わせました。

「人間は、人類のために努力して生きなければならない」

このすばらしい母の教えを、エジソンはしっかりと身につけていきました。

汽車のなかの実験室

 10歳になったエジソンは、家の地下室を実験用に使いはじめました。そして、実験どうぐや薬品をかき集めては「実験室」にとじこもるようになりました。

 とんでもない実験をして、両親から大目玉をくったこともあります。

 「風船の中に空気よりも軽いガスを入れると、空高くあがる。それなら、からだにガスをつめれば、人間は空を飛べるにちがいない」と考え、友だちの少年に炭酸ガスを発生するフットウサンを飲ませました。ところが空を飛ぶどころか腹痛をおこしてしまったのです。エジソンは、軽はずみな実験がどんなに危険かを知り、深く反省しました。

 さまざまな実験どうぐをそろえるためにはお金が必要です。やがてエジソンは、自分でかせいで実験をつづけようと決心しました。そして12歳のとき、ポート・ヒューロンの町に鉄道が開通すると、汽車のなかの売り子になりました。

 汽車は、毎朝7時にポート・ヒューロンを発車して、10時にデトロイトに着きます。ポート・ヒューロンにもどってくるのは、夜の9時半です。

 「デトロイトにいる8時間は仕事もないし、りっぱな図書館がある。あそんですごすのはもったいない」

 エジソンは、時間の許す限り図書館に通って、ほとんどの本を読みつくしました。また、仕事なかまの機関手や電信係からも、学べるだけのことを教わりました。

 知識が豊かになればなるほど、実験したいことも、どんどんふえていきます。
 しばらくするとエジソンは、汽車の荷物室の片すみに、実験室をつくらせてもらいました。車内での売り子の仕事は、すぐ終わります。そこで、往復6時間を、汽車のなかの動く実験室ですごそうと考えたのです。

 15歳になると、こんどは、動く実験室のなかに、新聞印刷機を運びこみました。

 そのころのアメリカは、リンカーン大統領のどれい解放宣言をめぐって、解放反対の南部と、賛成の北部とに分かれて、南北戦争が始まっていました。

 「みんな一刻も早く戦争のニュースを待ちのぞんでいるんだ」

 エジソンは、駅の電信手から、はいりたてのニュースを教えてもらって新聞を作れば、おおくの人たちによろこばれるうえに、よく売れるにちがいないと考えました。

 記事を書くのも、活字をならべて印刷するのも、そして売るのも、エジソンたった一人の仕事でした。『週刊ヘラルド』は、思ったとおり、たちまち評判になりました。ところがまもなく、汽車のなかでの実験と新聞発行は、あきらめなければなりませんでした。薬品のビンが棚から落ちて荷物車のなかが火事になってしまい、実験どうぐも印刷機も、外にほうり出されてしまったのです。

アメリカ一の電信手

 荷物車で火事を起こした年の夏、売り子の少年は、電信技師への道を歩みはじめました。

 ある日、貨車にひかれそうになった駅長の子どもを、命がけで助けたエジソンは、感謝のしるしとして、駅長から電信技術を教えてもらうことになったのです。

 電信は、いちばん学びたかったことです。エジソンは3か月もたつと、むずかしい技術をすっかり身につけ、カナダのストラトフォード駅の、電信手になりました。エジソンが、いかにも将来の発明家らしいことをして人びとをおどろかせたのは、このときです。

 夜の勤務のとき、とくに通信することがなくても、異常がないことを知らせるために、1時間ごとに「6」という信号を、発車事務所に送信する規則になっていました。もちろん、エジソンのいる駅からは、おどろくほど正確にその信号が事務所へとどきます。ところがある夜、事務所の方から、ストラトフォード駅に送信しても、エジソンからの応答がありません。ふしぎに思った監督官が行ってみると、エジソンは眠っているではありませんか。

 エジソンは、昼のあいだは時間を惜しんで勉強するため、夜は眠くてしかたがありません。そこで、電信機と時計を接続し、1時間たったら電信機が自動的に「6」を発信するようにして、自分は寝ていたのです。

 エジソンは、ひどくしかられました。しかし、16歳の少年が考えたすばらしい自動発信装置は、監督官をすっかり感心させてしまいました。

 やがてエジソンは、駅の仕事をやめ、電信技術者として、アメリカ各地を渡りあるくようになりました。

 エジソンは、どこへ行っても勉強と実験にむちゅうでした。そのため、電信手としての規則を完全に守れず、仕事を、すぐやめさせられてしまったこともありました。しかし、母が育ててくれた未知への好奇心は、いっそう広がるばかりでした。
 いろいろな経験を積むうちに、電信手としてのうではしだいにみがかれ、21歳のころには、すでに受信も送信も、アメリカのスピード王といわれるほどでした。しかし、そんな名誉にあまんじることなく、エジソンは電気の研究をつづけていました。

 「電信手を一生つづける気はない。ほんとうにやりたいのは、世のなかのためになる発明だ」

 まもなくエジソンは、発明第1号を完成しました。電信を応用した電気投票記録器です。しかし、議会での賛成数と反対数が、議員たちのボタン1つであらわれるように工夫したこの機械は、特許はとれたものの、実際にはまったく採用されませんでした。

 エジソンは、この投票記録器の実験と研究のために大きな借金をかかえてしまいました。しかし、お金を失ったかわりに「発明は便利なだけではだめだ。おおくの人びとによろこんで利用してもらえるものでなければ価値がない」という、たいへん貴重なことを学びました。

 そのご、通報機の改良でいくつかの特許をとったりするうちに、エジソンに、大きな幸運がめぐってきました。万能印刷機の発明です。どんな電報文でもすぐ印刷できるというこの機械のおかげで、4万ドルものお金が、貧しいエジソンのもとにころがりこんできたのでした。

メンロー・パークの魔法使い

 「さあ、ほんとうにやりたかった仕事を始めよう」

 23歳の青年エジソンは、ニュージャージー州のニューアークに大きな研究室と工場をつくりました。

 4万ドルという大金を、発明を通して、おおくの人びとのために役だてようという希望に燃えていました。

 エジソンは、250人もの研究者や労働者といっしょに、「あの工場の時計には針がない」といわれるほどはたらきました。

 工場を建てた翌年、母のナンシーが、とつぜん亡くなってしまいました。「ぼくの才能をひきだしてくれたのは母だ」と口ぐせのようにいっていたエジソンは、母の心を思い、さらに研究にうちこむようになりました。

 電信を文字にかえて記録する印字電信機、1本の電線で同時にいくつもの電信ができるようにした2重・4重式電信機。それに複写機。火災報知機。

 1876年に研究所をメンロー・パークに移してからは、炭素送話器、蓄音機、炭素電球などが、やつぎばやに生み出されました。1日の睡眠時間が2、3時間。ときには3日間一睡もしないという努力が、次つぎに実を結んでいったのです。
 そのころ電話は、グラハム・ベルによって発明されたばかりでした。しかし、ベルの電話は声が小さくて、実用的ではありませんでした。そこでエジソンは、現代もそのまま使われている炭素送話器を発明し、電話を、どんな遠距離間でも使えるようにしたのです。

 エジソンの発明のなかで、もっとも人びとをおどろかせたのは蓄音機です。

 いまから、およそ100年まえ、機械が、ものをいったり歌をうたったりしたのですから、人びとがこしをぬかすほどびっくりしたのは、むりもありません。蓄音機を聞こうと研究所におしかけてくる人たちのために、鉄道会社は、毎日、特別列車をしたてなければならないほどでした。

 エジソンは、いつのまにか「メンロー・パークの魔法使い」とよばれるようになっていました。

 電燈の研究は、エジソンが生まれるまえから始められていました。しかし、明るい光を、しかも、長時間ともしつづけることには、まだ、だれも成功していません。

 エジソンは、大きな電気抵抗をもつ炭素の細いフィラメントを作ることに精魂をかたむけました。そして1879年の10月21日、ついに実験が成功したのです。このときの電球は、45時間も輝きつづけました。

 「エジソンばんざい。おめでとうエジソン」

 人びとの歓声にかこまれたエジソンの目には、こらえきれない熱いなみだがあふれていました。

人類の平和のために

 1931年、エジソンは84歳で亡くなりました。32歳のときに電球の実験に成功してからは「人間に役だつ電気」を考えつづけ、ソケット、活動写真、アルカリ蓄電池などをつぎつぎに発明しました。大型発電機や電車の製作のほか、飛行機の研究をしたこともあります。自動車王とよばれた親友フォードのために、ゴムの研究をしたこともあります。
 84年の生涯のうちに、エジソンが成しとげた発明や工夫は、1097種類にものぼっています。おおいときは1年に141、新しい「なにか」が生み出されました。

 しかし、エジソンの偉大さは、数おおくのすぐれた発明をしたことだけにあるのではありません。

 「つねに夢と希望をもて、そして前進せよ」という信念を守りぬくことは、ほんとうに強い意志がなければ、けっして実現できなかったでしょう。人と人が殺しあうための兵器などは何ひとつつくらず、人類の平和のためだけを考えて、発明をつづけました。

 エジソンは、まだ若いうちに母や妻を亡くし、その一生は、幸福なことばかりだったわけではありません。しかし、苦しくともけっしてくじけず、実験にうちこむなかから、自分の生き方をみいだしたのです。