「ミケランジェロ」読書の手びき
ミケランジェロは、まぎれもなく天才でした。しかし、その生涯は、つねに苦しみとの闘いでした。不幸がつづいたからでも、貧しい生活に追われたからでもありません。あまりにも豊かな芸術家の心をもっていたために、人や社会と、そして自分とも妥協することができず、いつも孤独な世界で自己の芸術と闘っていなければならなかったからです。彫刻や絵にとりくんでいるあいだは食事もくつをぬぐことさえも忘れていたというのは、けっして変人だったからではありません。この天才芸術家にとっては、芸術に立ちむかうことだけが、すべてだったからです。ミケランジェロは、大壁画『最後の審判』のなかに、まるで悪魔のような自分の顔を、こっそりと描いています。天才であるがためにさけることのできなかった絶望の淵から、神にすくいを求めたのではないでしょうか。ミケランジェロの生涯は、ほんとうの芸術は人間の苦しみから生まれるものだと語っているようです。
文:有吉忠行
絵:岩本暁顕
編集プロデュース:酒井義夫
生まれたときから、のみを手に
いまからおよそ500年まえ、14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパに、人間の心をたいせつにして、自由にのびのびと表現する芸術が盛んになりました。のちに、ルネサンスとよばれるようになった文化運動です。 偉大な画家、彫刻家、そして建築家として名を残したミケランジェロ・ブオナロッチは、そのルネサンス時代なかごろの1475年に、イタリア中部のフィレンツェに近いカプレーゼという町で生まれました。 このころのイタリアは、まだ、ひとつの国としてまとまらず、都市ごとに、いくつもの国に分かれていました。フィレンツェも、大金持ちのメディチ家が支配する小さな国でした。 ミケランジェロの父親は、この国の警察長官でした。 ミケランジェロは、生まれるとまもなく、しんせきの大理石工の家にあずけられました。母親はからだがよわく、それに家には、もうひとり1歳半の子どもがいたため、里子にだされたのです。そして、それから4年間、大理石とのみをおもちゃにしながら育ちました。母は、そのご3人の男の子を産んで26歳の若さで亡くなり、わが家にもどったミケランジェロが母にあまえられたのは、わずか2年だけでした。 でも、石工の家にあずけられたことは、のちの彫刻家ミケランジェロにとっては、しあわせなことでした。 ミケランジェロは、6歳で小学校に入学しました。ところが、学校の勉強はあまりすきになれず、絵をかいたり、ねんど細工をしたり、石に彫刻のまねをしたりすることに、むちゅうになりました。 10歳をすぎると、友だちをびっくりさせるほどの絵をかくようになりました。しかし、絵をかくのは、父にはひみつでした。古い貴族の家がらを誇りにして、画家や彫刻家などは身分のいやしいただの職人だと思いこんでいる父が、わが子の絵の勉強をゆるしてくれるはずがなかったからです。 「ぼくは、なんとかして芸術家になりたい」 ミケランジェロは、父の反対が強ければ強いほど、なおいっそう、芸術家への夢をふくらませました。
父の反対に負けず芸術家の道へ
父にしかられながら自分の意志をつらぬきとおしたミケランジェロは、13歳で画家ギルランダイヨの弟子入りがゆるされ、学業をすてて芸術家への道を歩みはじめました。がんこな父も、わが子の意志のかたさに負けてしまいました。 それから1年ののち、絵の才能を発揮しはじめていたミケランジェロは、さらにみこまれてメディチ家にやとわれ、自由に芸術の勉強ができるようになりました。 メディチ家の広い庭には、まるで屋根のない美術館のように、すばらしい大理石の像が立ち並んでいました。 また、メディチ家には、いつも、哲学者や詩人が集まって芸術論の花をさかせていました。 ミケランジェロは、すぐれた芸術作品に接したり、ギリシア神話や聖書を読みふけり、綿が水をすうようにいろいろなことを頭につめ込んでいきました。また、生きた彫刻を作るために、教会の死体置場へでかけて人体解剖学も学びました。 ミケランジェロは、芸術家への道に進むことができたことを、神に感謝しました。ところが、このころ、不幸な事件が起こりました。芸術についての口論がすきだったミケランジェロは、ある日、口論のすえ、ミケランジェロの才能をねたむなかまになぐられて鼻の骨を折ってしまったのです。そして、低くまがったままになった鼻は一生なおらず、人いちばい美しいものにあこがれつづけたミケランジェロの心を、生涯、苦しめることになってしまいました。 しかし、このけがのあとミケランジェロは、彫刻家としてのすばらしい芽をだしはじめ、15歳から17歳にかけて彫った『階段の聖母』や『ケンタウルスの戦い』は、フィレンツェの人びとを、おどろかせました。 「人間の肉体をみごとに表現できる彫刻家だ」 芸術家たちは声をそろえてたたえ、少年ミケランジェロは、たちまちのうちに、りっぱな彫刻家として尊敬されるようになりました。
ぬげなくなったくつ
やがて、芸術に理解が深かったメディチ家の王が亡くなったので、ミケランジェロは20歳のときにローマへ行きました。そしてそのごは、フィレンツェとローマのあいだをなんども行ききして、絵と彫刻と建築にとりくむようになりました。 22歳のとき、死んだキリストをだきかかえる聖母マリアの大理石像『ピエタ』を彫り、こんどはローマじゅうの人を、感激させました。 また29歳のときには、3年がかりで彫りあげた高さ5メートルもの大理石像『ダビデ』を、フィレンツェの市庁舎の前に立て、ふたたび、ふるさとの人びとを、あっといわせました。旧約聖書にでてくる英雄ダビデの巨像は、静かな怒りにあふれ、見あげるすべての人びとに、ふしぎな勇気を与えました。 『ダビデ』完成のあと、つづいてとりくんだ仕事はフィレンツェの市庁舎の大会議室に、壁画をかくことでした。それも、23歳も年上の大画家レオナルド・ダ・ビンチと、うでをきそいあってかくことでした。 「ダ・ビンチは、彫刻は絵よりも低級だといっている。彫刻家は石の粉まみれになる職人だといっている。しかし、それはまちがいだ。どちらも同じ芸術だ」 ミケランジェロは、彫刻家を少しみくだしているダ・ビンチに腹をたてながら、下絵をかきはじめました。ダ・ビンチの、馬がとびはねる騎兵の戦いの下絵に対して、ミケランジェロの下絵は、はだかの兵が入りみだれた水中での戦いの絵でした。ところが、この壁画は、完成しませんでした。しかし、ふたりの下絵は、ともに、美術家の手本になるほどすばらしいものでした。 このときミケランジェロは、何か月もくつをはいたまま仕事にむちゅうになり、足からくつをとるときは、くつを切りやぶらなければなりませんでした。
天井をむいたままの4年間
「神の力をもった、すさまじい男だ」 人びとからこのようにささやかれたミケランジェロは、仕事をはじめると、まわりの人のことも、食事も、そして寝ることさえも忘れてしまうような、ほんとうに超人的な芸術家でした。 その超人ぶりは、ローマのバチカン宮殿シスチナ礼拝堂の天井画をかく仕事で、さらに人びとをおどろかせました。およそ4年間も、上をむいたまま絵をかきつづけたのです。 「わたしは彫刻家です。画家ではありません」 この仕事をローマ法王から命じられたとき、ミケランジェロは、はじめは強くことわりました。しかし、法王は、神の命令だといって、聞きいれませんでした。 「だれかが、むずかしい絵をかかせて失敗させ、おれを、おとしいれようとしているのかもしれない。よし、それなら、だれの壁画にも負けないものをかいてやろう」 ミケランジェロは、むりをいう法王への怒りをおさえて、仕事にとりかかりました。 礼拝堂の天井は、高さが20メートル、横が13メートル、縦が48メートル。 ミケランジェロは、すでに準備されていた足場をとりこわして、まず、自分で高いやぐらを組みあげました。法王がつけてくれた5人の助手は、絵の具づくりの助手ひとりのほかは、ことわりました。 「おれは、おれの力だけで、絵をかきあげるのだ」 32歳のミケランジェロは、目もくらむようなやぐらにのぼり、たったひとりで、世界のどこにもない大天井画をかきはじめました。 ひるも夜も、あおむけになったまま、かきつづけました。筆から絵の具がしたたり落ちて、顔はいつも、いろいろな色でまだらになっていました。仕事がはかどらないのを見て、あるとき法王が、いつ完成するのか、と聞きました。するとミケランジェロは、目を光らせて、ゆっくりと答えました。 「わたしが、まんぞくできるときです」 これを聞いた法王は、持っていたつえをふりあげんばかりに、おこりました。でも、芸術を愛し自分の絵を信じるミケランジェロには、法王の怒りなど、少しもこわくはありませんでした。
旧約聖書の物語「天地創造」「アダムとイブ」「ノアの洪水」などにでてくる343人もの人物を描きあげた大天井画は、およそ1500日をかけて、1512年に完成しました。さあ、いよいよ除幕の日、高い天井を見あげた人びとは、その壮大さに息をのんだまま、おどろきの声をだすのさえ、忘れてしまいました。天井を見つめた目になみだをうかべている人さえいました。 「これほど、偉大で完ぺきな絵は、ほかにはない。ミケランジェロの力には、どんな自然もかなわない」 天井画をほめたたえることばは世界に広がり、それまでミケランジェロの力をねたんでいた芸術家たちも、ひとりのこらず頭をさげました。 ところが、ミケランジェロ自身には、それからしばらくのあいだ、こまったことがありました。4年間も上ばかり見つづけていたため、あごがつきでてしまい、歩くとき足もとが見えません。また、本を読むにも、本をかかえて顔の上にもってこなければなりませんでした。 「わたしは4年間、苦しさにたえられるだけたえた」 ミケランジェロは、自分との闘いにうち勝って、永遠に残る名作を完成させることができたのです。
神の声が聞こえる大壁画
世界の大芸術家になったミケランジェロは、それからおよそ20年のあいだ、あるときはメディチ家や法王の墓を作らされ、あるときは教会を建てさせられ、その墓や教会をかざる数おおくの彫刻を彫りつづけました。 ミケランジェロは、法王やメディチ家などの支配者から、わがままな仕事をおしつけられることに、いつも腹をたてました。でも、このころの芸術家は、こうして生きていくより、しかたがありませんでした。 「仕事はいいつけられても、権力には負けないぞ」 ミケランジェロは、心のなかで、いつもこう思いつづけました。だからミケランジェロの彫刻には、そのおおくに、やさしさよりも、いかりがこめられています。 シスチナ礼拝堂の大天井画を描いてから20数年ののち、60歳になっていたミケランジェロは、新法王から、こんどは同じ礼拝堂の祭だんに壁画をかくことを命じられました。このときもミケランジェロは、わたしは彫刻家だとうったえてことわりました。でも、やはり、神の代理である法王の命令にそむくわけにはいきません。 「また、自分との闘いだ」 ミケランジェロは、芸術家の心を理解してもらえないのを悲しみながら、ふたたびひとりで大壁画『最後の審判』の制作にとりかかりました。そして完成までには、天井画のときよりももっと長く6年以上もかかりました。 全人類の罪と悪に対して、手をふりあげて審判をくだそうとする力づよいキリスト。そのまわりに描かれた天使や聖人と、地獄に落ちていくもの、地獄からはいあがろうとするもの。この、神の声と罪人のさけび声が聞こえてくるような『最後の審判』を見て、ローマの人びとは、またもや息をのみ、感動にうめきました。そして大天井画と大壁画にかざられたシスチナ礼拝堂は、世界にふたつとない美術の宝庫になりました。
世界に残した芸術の財産
ミケランジェロは、70歳をすぎても、心にもやしつづけた芸術の火を消しませんでした。からだはおとろえても、心はおとろえず、ローマのサン・ピエトロ大聖堂をはじめ、いくつもの教会や礼拝堂の建築に力をつくしました。また、3体の『ピエタ』などの彫刻にとりくみ、絵筆のかわりにペンをにぎって詩も書きました。 1564年2月、自分の死を予感するようになっていたミケランジェロは、3体めの『ピエタ』を彫るのみをふるっている最中にたおれ、長かった芸術家の生涯を終えました。息をひきとったのはローマでした。しかし遺体はフィレンツェへ持ち帰られ、ふるさとの人びとの手で、ふるさとの土に埋められました。世界に誇る大芸術家だったのに、また、あそぶことを知らずにはたらきつづけた生涯だったのに、残された財産はわずかなものでした。 しかし、自分は丸はだかで死んでも、世界の人びとに、彫刻と絵と建築のすばらしい芸術を財産に残しました。 日本の詩人で彫刻家の高村光太郎は、大天井画の下に立ったとき、感激のため息といっしょに「生きている人間があわれに見える」と、つぶやいたということです。 ミケランジェロは、偉大な芸術家であるだけではなく、人間の生と死を見つめた偉大な哲学者でもありました。