ファーブル(1823-1915)
やさしいまなざしで昆虫をみつめ,
その生態を美しい文章で『昆虫記』に記した昆虫学者。
「ファーブル」読書の手びき
ファーブルは『昆虫記』全10巻を、およそ30年という長い歳月をかけて完成させました。昆虫の観察ひとすじに生きた崇高な努力の結晶であり、まさに、自己の信念へ向かって命を燃焼させる、清らかな研究者の典型を見ることができます。『昆虫記』を読むと、さまざまな昆虫の生態のおもしろさと本能の神秘さに、すっかり心を奪われます。そしてさらに、生きるものの命の尊さと、命あるものが生き続けることの尊厳について、どこまでも深く考えさせられます。このファーブルの『昆虫記』のすばらしさの秘密は、ほんとうはここにあるのだといっても、よいのかもしれません。それは、ファーブルの昆虫の研究は、昆虫を愛することに始まり、たとえ小さな生きものであっても、厳然と存在する命の確認を基底にして、つらぬかれたものであったからです。詩情あふれる『昆虫記』だと評されるのも、ファーブルの愛が、その底に一貫して流れているからでしょう。
文:有吉忠行
絵:鮎川 万
編集プロデュース:酒井義夫
ファーブル
虫きちがいの少年
20世紀の初めころから,世界じゅうの子どもたちに読みつがれている虫の本があります。森や草むらや土の中にいる虫たちのふしぎな生活を,あたたかい心と,美しい言葉でつづった『昆虫記』です。
この『昆虫記』を書いたジャン・アンリ・ファーブルは,1823年に,南フランスのサン・レモンという小さな村で生まれました。家は,たいへん貧しい農家でした。
暮らしが苦しかったため,ファーブルは,5歳のとき両親と別れ,ひとりだけ,山の中にある祖父の家にあずけられました。
「ぼく,ちっとも,さみしくなんかないよ」
山へきたファーブルは,毎日,いろいろな昆虫がいる牧場や森へ行ってあそびました。
昆虫をみつけると,何時間でも,そばからはなれません。めずらしい虫の鳴き声が聞こえると,何日かかっても,その虫をさがします。
「あの子は,ほんとうに虫きちがいだ」
祖父も祖母も,あきれてしまいました。
昆虫にむちゅうになっただけではありません。ふしぎに思えることはなんでも調べたがりました。ある日,太陽に向かって,目をとじたり口を大きくあけたりして,祖父をびっくりさせたことがあります。
「ぼく,太陽の光が,目で見えるのか口でわかるのか,実験してみたんだよ。光は目で見えるんだね」
祖父は笑いました。でも,ファーブルは,自分でたしかめてみないと気がすまなかったのです。
やがて7歳になったファーブルは,小学校へ入るために,村へもどりました。
村の小学校は,教室がたったひとつしかない,ちっぽけな学校です。しかも,ブタやニワトリが教室に迷いこんで大さわぎになるので,勉強はちっともすすみませんでした。ファーブルは,あいかわらず野山をかけまわって,昆虫や動物たちとあそんでばかりいました。だから,いつまでたっても,文字をおぼえませんでした。
ある日,父が,食べものをけんやくしたお金で,1枚の大きな絵を買ってきてくれました。たくさんの動物が並んでいる絵です。ファーブルは,だいすきな動物の名前を知るために,またたくまに,文字をおぼえてしまいました。やがて教科書も読めるようになりました。よろこんだ父親は,ごほうびに,こんどは詩人が書いた動物ものがたりの本を買ってくれました。
ファーブルは,このときの父のやさしい心づかいを,いつまでも忘れませんでした。
レモン売りをしてパンを買う
ファーブルが10歳になったとき,家族は,町へひっ越しました。父が,農業をやめて町でコーヒー店を開くことになったからです。
ファーブルは,教会が建てたりっぱな中学校で学べるようになりました。しかし,1つだけ気のすすまないことがありました。それは,月謝を免除してもらうかわりに学校の合唱隊に入れられ,日曜日になると,教会で歌をうたわなければならなかったことです。教会に来ているおおぜいの人のまえに立つと,いつも,足がふるえて声がでませんでした。
でも,ふだんは森や川で昆虫や魚とあそび,ときには,よその家のリンゴの木にのぼってリンゴをポケットいっぱいにしたり,農家の七面鳥にいたずらをしたり,友だちと走りまわって楽しい毎日をすごしました。
ところが4年ののち,父親がコーヒー店の経営に失敗して,家族は,さらにちがう町へひっ越しました。そして,中学校を卒業したばかりのファーブルは,自分ひとりで生活していかなければなりませんでした。父親はよその町へはたらきに行き,母親は小さい弟をつれて,店に住みこんではたらくことになったからです。ファーブルは,まだ14歳でした。
「もう,だれにも,たよることはできない」
ファーブルは,鉄道工事の土はこびをしてお金をもらいました。みすぼらしい服を着て,遊園地でレモン売りもしました。宿がないときは,公園のベンチで星を見上げながらねました。
苦しくて泣きたいときは,昆虫のことを考えました。パンを食べるのをがまんして詩集を買い,美しい詩を口ずさんで気をまぎらわせたこともありました。そして,雨で仕事ができないときは,きまって中学校の図書館へ行き,図鑑を借りて昆虫の勉強をしました。すると,ある日,思いがけないしあわせがおとずれました。
「きみは,師範学校へ進んだらどうだね。寄宿舎に入ってまじめに勉強すれば,食事代も月謝も,免除してもらえる制度があるんだよ」
昆虫を調べるファーブルの情熱に感心した中学校の先生が,こんなすばらしいことを教えてくれたのです。
ファーブルは目を輝かせました。そして,はたらきながら勉強をつづけて,1年ののち,みごとに1番で入学試験に合格しました。
「自由に勉強ができるなんて,ほんとうに夢のようだ」
ファーブルは,希望に胸をふくらませて学び始めました。2年生のとき,昆虫や植物の研究にむちゅうになって落第しそうになり,先生に「なまけものだ」と,しかられたことがありました。でもそれからは,しばらく昆虫のことは忘れる決心をして,学校の勉強にはげみました。
18歳の小学校の先生
師範学校を卒業したファーブルは,小さな町で小学校の先生になりました。18歳のファーブル先生です。
「学校をでたらすぐはたらく生徒がおおいから,おもしろくて,仕事の役にたつ理科を教えてやろう」
ファーブルは,ガラス器の中で,酸素をつくったり,水素をもやしたり,鉄をとかしたり,さまざまな実験をしてみせました。
「ファーブル先生の授業は,おもしろいぞ」
ふしぎな実験に,子どもたちはむちゅうになりました。学校ぎらいの,いたずらぼうずたちも,いつのまにか楽しそうに勉強するようになりました。
理科の実験のほかに,ファーブルは,1週間に1度,子どもたちを野原へつれだして,土地の広さや地形を調べる測量の勉強もさせました。これも,ファーブルが考えた,楽しくて役にたつ勉強のひとつです。
ところが,この野原での勉強が,ファーブルの昆虫を研究する心に,新しい灯をともしました。
土地を測りながら,子どもたちが,ときどきしゃがみこんで手を動かしています。ふしぎに思ったファーブルが近づいてみると,子どもたちは,土の中のハチの巣をさがしだして,おいしそうに蜜をなめていました。
「どこに巣があるのだ。蜜は,どんな味がするんだい」
ファーブル先生は,子どもをしかるのも忘れて,ハチの巣の観察を始めました。そして,そのよく日,1か月分の給料でも買えないほどの本を求めてくると,何十回も読み返して,ひそかに自分の心にいいきかせました。
「おまえも,すばらしい昆虫の本を書くようになれ」
ファーブルは,いつかきっと,この夢を果たすことを思って,胸をはずませました。
しかし,小学校の先生の給料は安くて,食べていくのがせいいっぱいです。そのうえ,ちょうどこのころ結婚をしたため生活はますます苦しくなり,昆虫の研究にうちこむことなど,とてもできませんでした。
そこでファーブルは,中学校か大学の先生になる目標をたてて,数学と物理学の勉強を始めました。だれも教えてくれる人はいません。むずかしい問題にぶつかると,岩にしがみついて山をよじのぼるようにして,がんばりつづけました。1つの頂上にたどりつくと,もうひとつの高い山をめざして,努力しました。そして25歳のとき,大学から,数学と物理学の学士めんじょうをもらいました。
ファーブルは,昆虫を追いかけたいのをがまんして,ひとつの目的をなしとげたことを,自分で誇りに思いました。でも,同じ年に長男を失い,明るい気持ちにはなれませんでした。
いつまでも苦しい生活
1年ののち,ファーブルは地中海に浮かぶコルシカ島へわたり,中学校で理科を教えることになりました。
コルシカ島の海岸には美しい貝があります。山にはたくさんの昆虫がすみ,めずらしい植物がはえています。ファーブルは,ひまなときは海岸や山を歩きまわりました。でも,昆虫の研究にむちゅうになることはできませんでした。中学校の先生になっても,生活の苦しさはあいかわらずだったからです。
「やはり,もっと数学を勉強して大学の先生になろう」
ファーブルは,昆虫の本を書く夢は心の奥にしまいこんで,数学の勉強をつづけました。
ところが,島へきて3年めのことです。
「あなたほどの人が昆虫学をすててしまうとは,たいへん残念です」
島へ研究にきていた有名な植物学者に,才能をおしまれたファーブルは,自分の気持ちをあらためて整理してみました。
そして,まもなくして島をはなれ,アビニヨンの中学校に転任して,ふたたび昆虫の観察をつづけるようになりました。
このとき,いちばんむちゅうになったのは,ツチスガリバチの観察でした。ツチスガリバチは,ゾウムシをとらえると,自分のからだの毒針で眠らせて,たまごを生みつけます。やがて,たまごからかえった幼虫は,ゾウムシを食べて自力で育ちます。ファーブルは,研究すればするほど,大自然のしくみに感動しました。
朝から晩まで草むらにすわりこんでいて,町の人に,頭が変だと思われたこともありました。でも,なにをいわれても,どんなに笑われてもひるまず,やがてツチスガリバチの生活をつづって雑誌に発表すると,フランス学士院から賞がおくられました。
しかし,家族は7人に増え,生活は,ますます苦しくなるばかりです。なんとかしなければ,これ以上,昆虫の研究をつづけることはできません。そこで思いあまったファーブルは,先生をしながら,草の根からとった染料で着物を安く染める研究をして,生活をたすけようとしました。
「手を染料でまっ赤にそめ,生活苦とたたかいながら昆虫の研究をつづけるファーブル先生は,フランスの宝だ」
ファーブルは,皇帝や文部大臣からほめられ,くん章をもらいました。でも,草の根の染料の研究は,ほかに石炭から安い染料をつくることが発明されたため必要とされなくなり,結局,生活は楽になりませんでした。そのうえ,ファーブルが学校で宇宙や植物や動物の正しい知識を教えることが,町の人たちにきらわれるようになり,中学校の先生もやめさせられてしまいました。そのころは,まだ科学を認めたがらない人が,おおかったからです。自由に研究をつづけたかったファーブルは,この地を去ることにしました。
30年かかって書いた『昆虫記』
静かな村へひっ越したファーブルは,子どものための科学ものがたりを書いて,生活をささえました。そして,なにもかも忘れて昆虫の研究にうちこみました。
ハチ,コガネムシ,セミ,トンボ,バッタ,コオロギ,イモムシ,カタツムリ……。昆虫を集めるのではありません。かいぼうするのでもありません。昆虫の生きたままのすがたを,やさしい心で見つづけるのです。そして,55歳になったとき,とうとう『昆虫記』第1巻を出版しました。でも,同じ年に,父と妻と,息子のジュールを亡くし,ファーブルの不幸は,いつまでもたえませんでした。
『昆虫記』は,それから2,3年おきに1冊ずつ出版され,全10巻がそろったとき,ファーブルは,84歳になっていました。ところが,この年になっても生活はまだまだ貧しく,ファーブルがやっとゆたかになったのは,それから数年ののちでした。
「ファーブル先生を,みんなでたすけよう」
ファーブルの貧しさにおどろいた詩人や文学者や科学者たちが「ファーブルの日」をひらき『昆虫記』のすばらしさを世に紹介して,やっと全10巻が売れるようになったのです。
もうすぐ90歳という年になって,ファーブルは,初めて生活の心配をしないで昆虫の観察ができるようになりました。しかしこのときは,すっかり弱ったからだが,もう自分の自由になりませんでした。そして,第1次世界大戦が始まったよく年の1915年に,昆虫を友として生きた92年の生涯を終わりました。
『昆虫記』は,小さな虫たちへの愛情にあふれています。生きているものへの思いやりにみちています。
虫のよろこびや悲しみがわかるファーブルは,春のそよ風のように,心のやさしい人でした。