坂本龍馬

坂本龍馬(1835-1867)
新しい時代へ突っ走り、薩長同盟を成立させて大政奉還を実現にみちびいた、幕末の志士。

「坂本龍馬」読書の手びき

薩長同盟の大役を果たした翌年、坂本龍馬は、後藤象二郎とともに、長崎から京都へむかった船のなかで、船中八策とよばれるものをまとめています。朝廷への政権返上、公議政体、人材の登用、国際法の確立、憲法の制定など8項目をかかげ、民主的な近代国家の建設をよびかけたものです。この八策が、大政奉還建白書の中心となり、さらに、1868年に明治天皇が「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」と記して発した五か条の御誓文の基礎にもなりました。このひとことからだけでも、龍馬が、いかに、日本のあるべき将来を正しく見通していたかがわかります。しかし、自分自身は、新しい時代の恩恵になにひとつ浴することなく、まさに、歴史のいしずえとなって死んでいきました。いしずえになったといえば、西郷隆盛や勝海舟らだって同じです。明治維新に活躍した人びとの生涯を追うとき、人間の生きるほんとうの価値について、無言のうちに教えられます。

文:有吉忠行
絵:岩本暁顕
編集プロデュース:酒井義夫

坂本龍馬

気の弱い泣き虫龍馬

 「おやおや、龍馬がまた泣かされて帰ってきたようねえ、ほんとうに、なんて気の弱い子なんだろう……」
姉の乙女が、針仕事の手を休めて庭へおりていくと、着物をどろでよごした龍馬が、大声で泣きながら立っています。
「男の子は、いつまでも泣いているものではありません」
龍馬は、姉に、井戸水で手足を洗ってもらいながら、もっと強くなるように、いつも、はげまされました。
日本の歴史に大きな足あとを残して、江戸時代の終わりを、ほんとうに龍か馬のようにかけぬけた龍馬は、子どものころ、たいへんな泣き虫でした。
坂本龍馬は、明治時代の幕が開く33年前に、土佐国(高知県)の高知城下に生まれました。父の坂本直足は郷士でした。郷士とは、ふだんは商売や農業にたずさわって生活を支える、身分の低い武士です。さいわい、直足の本家は、酒造りの商売を手広くいとなんでいましたから、お金の不自由はありませんでした。そのうえ、龍馬は武士として育てられながら、いっぽうでは、商人の世界でのものごとをいろいろな角度から見ることもおぼえました。
龍馬というのは、ほんとうの名まえではありません。本名は直柔です。直柔が生まれる前の晩に、母が空にのぼる龍の夢を、父が空からかけおりてくる馬の夢を見たので、やがて、龍馬とよばれるようになったと、伝えられています。父も母も「この子は、きっと強い男の子になるぞ」と、誇りに思いました。
ところが龍馬は、父や母が期待したような子どもではありませんでした。泣き虫で、寝しょうべんをするうえに、12歳のころからかよい始めた塾でも、さっぱり成績がよくありません。いつも先生から「君にはもう教えようがない。明日からこなくていいよ」と、きらわれるしまつでした。
そんなとき、母が亡くなってしまいました。龍馬は悲しくてしかたがありませんでしたが、この龍馬を、母のかわりに、きびしく、やさしく見守ってくれるようになったのが、3つ年上の姉の乙女です。龍馬は、姉にみちびかれて、少しずつ、たくましくなっていきました。


剣術を学びたくましい人間へ

 乙女のすすめで、14歳のころから剣術を習い始めた龍馬は、またたくまに、見ちがえるように活発になりました。朝、まだ暗いうちに家をとびだして道場へ行き、だれよりも熱心に、そうじをします。剣道具の手入れもします。そして、剣術にはげむだけではなく、乗馬や水泳にも身を入れ、もう、けっして泣くことのない青年へ育っていきました。
18歳になったころ、剣術のうでをさらにみがくために江戸(東京)へでて、千葉定吉の道場へ入門しました。定吉は、剣術の達人として名高い千葉周作の弟です。そのころの江戸には、斎藤弥九郎、桃井春蔵らの剣の名人が道場を開き、弥九郎の弟子に桂小五郎(のちの木戸孝允)、春蔵の弟子に武市半平太がいました。
龍馬は、江戸へきて数年ごから、同じ土佐出身の半平太と親しく交わり、幕府のこと、日本の将来のことを耳にするようになりました。やがて、龍馬の心に、おさえきれない熱いものが、わきおこってきました。
「剣術ひとすじでいいのだろうか。もっとしなければいけないことが、ほかにあるのではないだろうか」
剣術の道をきわめることだけを考えている自分が、心のせまい人間のように思えてきたのです。
龍馬が半平太と知りあう少しまえに、アメリカ海軍将官のペリーが、4せきの軍艦をひきいて浦賀へ現われ、日本に開国を迫りました。このころの日本は、江戸幕府の方針で、外国とは交わらない鎖国政策をとっていましたから、日本じゅうが大さわぎです。ペリーを追い返して、これまでどおり鎖国をつづけるか、それとも、ペリーの要求を受け入れて、外国とのつきあいを始めるか、意見はふたつに分かれて、さわぎが広がりました。
ところが幕府は、つぎの年の1854年に、ペリーと日米和親条約をむすび、下田と箱館(函館)の2港を開港することにしてしまいました。すると、怒ったのは、日本の開国に反対する人たちです。
「幕府に日本の政治をまかせていては、外国に攻め込まれてしまうばかりだ。幕府を倒して、天皇に政治をやっていただこうではないか」
天皇をとうとび、鎖国をとなえる尊王攘夷派の人びとは、このように叫びます。いっぽう、佐幕派の人びとは「たとえ開国しても、幕府を倒してはならぬ」と叫びます。龍馬は、人びとの対立が深まっていくなかで、日本に新しい時代がおとずれつつあることを、しっかり感じとっていきました。

 1858年、23歳で北辰一刀流の免許皆伝を受けて土佐へ帰った龍馬は、ついに自分も、政治の争いのなかへ足を ふみ入れました。土佐藩のなかでも、アメリカに対する幕府の弱いしせいを非難する者や、天皇に政治をゆずるべきだと主張する者や、あくまで幕府をかばおうとする者などが、ぶつかりあうようになっていたからです。
龍馬が賛成したのは尊王攘夷です。大きな世の中で大きく生きていくことを考えた龍馬は、半平太が結成した土佐勤王党にくわわって、活動を始めました。


日本を拾う

「武士だ、町人だなどと言っていても、外国に攻め込まれてしまえば、何もならない。開国などしたら、日本はおしまいに決まっている」
龍馬が土佐勤王党へ入ったのは、このように考えたからです。剣術では藩でも並ぶものがいないほどになっていた龍馬は、さらに剣の修業をつづけることを理由にして、まず、ほかの藩のようすをさぐることにしました。そして、長州藩(山口県)で、吉田松陰の弟子の久坂玄端に会いました。玄端と天下のことを話しあってみると、するどいものの見方に、おどろかされるばかりでした。「こんなことではいけない。おれは、もっと世の中の動きを知り、もっと深く考えなければ……」

 土佐にもどった龍馬は、藩をぬけだす決意をかためました。いつまでたっても、はっきりした行動をとらない藩にいるよりも、自由な身になって、いろいろなことを学びながら、自分から動き出すことにしたのです。脱藩は重い罪に問われます。捕えられれば、腹を切ることになるかもしれません。しかし、龍馬の胸に燃えさかった尊王攘夷の炎は、いきおいをますばかりです。
「土佐を捨てるのではない。日本を拾うのだ」
1862年3月、龍馬は土佐を旅立ちました。


目がさめた勝海舟の教え

京都をへて、江戸に着いた龍馬は、開国を主張していた、幕府の役人勝海舟をたずねました。このとき「海舟は、外国人のいいなりになって、日本を滅ぼそうとしているけしからん男だ」と思いこんでいた龍馬は、海舟がどうしても開国するといえば、切り殺してしまうことを考えていました。ところが、顔をあわせたとたん、龍馬は、どぎもをぬかれてしまいました。
「あんたは、わたしを切るつもりですね。まあ、わたしの話を聞いてからにしなさい」
龍馬の心を、すっかり見やぶっていたからです。それに、海舟は、おどろくほど落ちついています。
「坂本さん、世界のようすを何も知らないで、外国と戦ってみたところで、敗けるだけだよ。それより、外国の文明を取り入れて、1日も早く、日本の力を強めることがたいせつだ。それには、開国しかないだろう」
世界の情勢。日本の立場。日本がこれからしなければいけないこと……。龍馬は、海舟が地球儀をまわしながら説明してくれるのを聞いているうちに、しだいに、自分がはずかしくなっていきました。
「おれは、まだまだ何も知らなかったのだ。外国のことを何ひとつ知らないで尊王攘夷を叫んでいたなんて……」

 いつのまにか、夢中になって海舟の話に聞き入り、やがて海舟が話をやめると、龍馬は、海舟のまえに両手をついて、きっぱりと言いました。
「勝先生、きょうから、わたしを弟子にしてください」
海舟を見つめる龍馬の目は光っています。こうして尊皇攘夷の心をすっかり入れかえた龍馬は、広い世界を見わたすことのできる人間へ、成長していきました。
1864年、海舟が兵庫に海軍操練所をつくると、29歳の龍馬は、その塾頭としてはたらき始めました。海軍操練所は、外国に負けない海軍を育てるために、日本じゅうからすぐれた若者を集めて、航海術などを学ばせたところです。明治時代に外務大臣として活躍した陸奥宗光なども、ここで学んでいます。
ところが、操練所は、わずか1年で、幕府の命令で廃止されてしまいました。海舟が、攘夷論者を集めて幕府に反対する教育をしているという、うわさが広がったからです。龍馬は、海舟を信じようとしない幕府のせまい心に怒りました。でも、どうすることもできません。そのご、薩摩藩(鹿児島県)の大坂(大阪)のやしきでせわになっていた龍馬は、やがて、薩摩へむかいました。


薩摩と長州の手をむすばせて

 船で薩摩へ行った龍馬は、西郷隆盛や隆盛といっしょに新しい世の中をつくることを考えている人びとと、語りあうことができました。そして、薩摩藩が立ち上がるなら、ほかの藩も力をあわせるようにしなければいけないと、考えるようになっていきました。このとき第一に考えたのが、薩摩藩と長州藩をむすびつけることです。
薩摩から長崎へ行った龍馬は、薩摩藩の助けを受けて、西洋の銃砲や船を取り引きしたり、武器を輸送したりするための、亀山社中という組織をつくりました。それまで、幕府にはむかったおおくの人が、失敗して死んでいったのを見てきた龍馬は、行動をおこすまえに、まず、しっかりした力をたくわえることを心がけたのです。
やがて、亀山社中の力はしだいに大きくなり、龍馬は、いよいよ、薩摩と長州の手をにぎらせる仕事にとりかかりました。ところが、かんたんにはいきません。
おとろえ始めた幕府の力をもり返すために、天皇の権威とむすびつくことを考えて、公武合体をとなえていた薩摩藩の武士が、尊王攘夷をとなえる長州藩の武士を京都から追いだす事件が1863年に起こり、それいらい、このふたつの藩はたいへん仲が悪くなっていたからです。 また、そのつぎの年に、西郷隆盛のひきいる薩摩軍が、幕府軍として長州征伐にむかったことも、両藩のにくしみあいを、ますます深いものにしていました。
しかし、そのご、薩摩藩の武士のおおくは、幕府をきびしくひはんするようになり、機会があれば幕府を倒そうとする考えは、もう、長州藩と同じになっていました。「薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎を、どんなことがあっても、握手させなければ……」
龍馬は、土佐藩をやはり脱藩した中岡慎太郎と力をあわせて、隆盛と小五郎の説得を始めました。でも、隆盛も小五郎も、自分の藩の体面ばかりを考えて、話しあいを始めようとはしません。
「土佐のいなか者が、こんなに走りまわっているのに、あなたがたは、1歩も歩きだそうとしない。ほんとうに、日本のことを考えているのですか」

 龍馬は、ふたりに、いどみかかるようにして、説得をつづけました。 とくに小五郎には、亀山社中の力で、西洋の武器を長州藩に送り込んでやることを条件にして、話を進めました。幕府ににらまれている長州藩は、外国から新しい武器を輸入できずに、困っていたからです。
1866年1月21日、ついに、目的を果たしました。京都の薩摩藩の屋敷で、隆盛と小五郎は、やっと、藩と藩が仲なおりすることと、これから倒幕に力をあわせることを約束してくれたのです。
こうして、歴史に残る薩長同盟をなしとげた龍馬は、ほっと、肩の荷をおろしました。ところが、それからまもなく、京都伏見の寺田屋という旅館で、幕府にやとわれた新撰組におそわれました。このとき龍馬は、命だけはとりとめましたが、両手に傷を負いました。
そのごの龍馬は、ふたたび長州を討ちにきた幕府軍と戦いました。また、土佐藩の重役をつとめていた後藤象二郎に会って、脱藩の罪が許されると、土佐藩士のひとりにもどって、倒幕のじゅんびを進めました。このとき亀山社中を土佐藩のものにして海援隊と名づけています。龍馬が土佐藩へもどったのは、自分の意見を、藩をとおして幕府へ伝えたほうが効果があると、考えたからです。
しかし、龍馬の命は、それから、およそ9か月しか、この世にありませんでした。かくれ住んでいた京都の近江屋というしょうゆ屋で、佐幕派の武士におそわれ、32歳の生涯を閉じてしまったのです。龍馬らの願いがみのり、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返還して、わずか1か月ごのことでした。息をひきとるときの龍馬の頭にあったのは、新しい文明の光がさし始めた、美しい日本のすがたではなかったでしょうか……。