およそ700年まえ、鎌倉時代なかごろの日本に、元の大軍が、海を越えてせめてきました。
日本にとって外国の軍隊におそわれたのは、初めてのできごとです。北九州の海岸に石垣をきずき、武士を集めて戦いました。さいわいに吹き荒れた台風に助けられて、元軍の船をやっと追いはらいました。
このとき中国から、日本征服をねらって元軍をさしむけたのが、フビライ・ハンです。
フビライは、チンギス・ハンの孫として1215年に生まれ、病死した兄のモンケ・ハンのあとをついで、45歳のとき、モンゴル帝国の第5代めの皇帝になりました。しかし、皇帝にはなっても、武力で皇帝の地位をねらう一族のものたちと、生涯、あらそいつづけなければなりませんでした。
ハン(皇帝)になったフビライは、国の名を元と定め、都を中国の北京に置きました。むかしからのモンゴル族の土地は、北部の広い草原だけでした。そこでチンギス・ハンが侵略していた、豊かな文化をもつ中国の金国を中心に、モンゴル民族の国をさらに大きなものにしていこうと考えたのです。
「家畜をつれて草原をさまよいあるくだけの生活で、農業も町づくりも知らないモンゴル人だけでは、これからの中国をしはいしていくことはできない」
中国人も役人にとりたて、政治のしくみには、金国の政治のよいところを、おおくとり入れました。しかし、軍隊だけは、チンギス・ハンがモンゴル帝国をきずくときにつくりあげたかたちを、そのまま守り、訓練にはげんで、戦いにそなえてきました。やがて、その強力な軍隊を用いて、金国の南で勢力のあった中国の南宋という王朝をうちやぶり、中国全土を征服してしまいました。いきおいにのって日本へ遠征の軍をおくったのは、このころのことです。
南宋をほろぼしてからは、国をゆたかにするため外国との貿易を盛んにしました。また、西の方の国とも手をむすんで、ヨーロッパとの交流の道を開きました。マルコ・ポーロが中国にいた17年間は、この元の国が、もっとも栄えていた時代でした。だからポーロは、このフビライ・ハンを、のちに旅行記のなかで「君主のなかの大君主」とたたえました。
元は、フビライが79歳で死んで74年ごの1368年にほろびました。フビライにつづくすぐれた皇帝が現われず、苦しめられていた中国人がモンゴル人の支配をくつがえしてしまったのです。