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松尾芭蕉 1/6

江戸へでて俳諧の道へ

 五・七・五の句に、さらに七・七の句をつけ、それを交互につづけていく歌を、俳諧のなかでも、とくに連歌といいます。おもしろみをねらい、何人かの人がいっしょになって、よみつらねていくものです。そして、そのいちばん初めの五・七・五の句を発句とよび、やがて、それだけが独立して、俳句となりました。松尾芭蕉は、それまで遊びのようだった俳諧を、俳句によって、すばらしい文学にまで高めるきそをつくった俳人です。

 芭蕉は、江戸時代の初めに、伊賀国(三重県)上野の城下町で松尾与左衛門の次男として生まれました。父は、松尾という、武士だけにゆるされたみょう字をもっていました。しかし、武士としての位はたいへん低く、農民に近かったのではないかといわれています。芭蕉の幼いときの名は金作といいましたが、少年時代のことは、ほとんどわかっていません。

 17、8歳のころ、藩の侍大将をつとめる藤堂新七郎に、新七郎の息子の良忠の相手役としてつかえました。良忠は、芭蕉よりも2歳年上でしたが、ふたりは、またたくまに兄弟のように仲よくなりました。芭蕉が俳諧に心ひかれるようになったのは、良忠が、京都の俳人北村季吟に、歌を学んでいたからだといわれています。芭蕉も良忠といっしょに季吟に学び、そのころ宗房と名のっていたのをソウボウと読んで、いくつもの句をつくりました。

 ところが、芭蕉が22歳のとき、良忠は結核におかされて亡くなってしまいました。芭蕉の悲しみは、たとえようもありません。良忠のかたみを高野山(和歌山県)へおさめる使者の役を果たし終えたのち、藤堂家へ、仕官をしりぞくことをねがいでました。しかし、ねがいは許されませんでした。やがて芭蕉は、良忠がいないうえに、このままでは自分の出世のみこみもないことを考えて、すっかりむなしい気持ちになり、藤堂家から、だまって身をひいてしまったということです。

 それから5年くらいのあいだのことは、よくわかっていません。京へでて季吟のもとで勉強をつづけていたとも、また、伊賀にとどまっていたとも伝えられています。ただ、俳人への道を歩みはじめていたことはたしかです。

 28歳のとき、芭蕉は、伊賀に住む俳人たちの発句を集めて句集をつくりました。しかし、このころすでに、貞門派とよばれた季吟の句には、あきたらなくなっていました。自由な心よりも、言葉をたいせつにする貞門派の句は、形にはまりすぎていると思えたからです。

 「もっと新しい句があるはずだ。江戸(東京)へでて、俳諧師をめざして勉強にうちこもう」

 芭蕉は、俳諧の道で自分の人生をきりひらいていくことを心に決めて、江戸へ行きました。ところが、初めの10年ほどは、俳諧ひとすじに生きるどころか、知人の家を泊まり歩き、神田上水の工事に汗を流し、貧しい暮らしと、けんめいに闘わなければなりませんでした。でも、どんなに苦しくても、俳諧の勉強だけはつづけました。


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